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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

淡路勢と久比岐勢が共闘して奈良盆地を制圧した

高皇産霊を憑依させた神武が淡路勢であり、椎根津彦が久比岐海人族の青海氏であるなら、大和の兄磯城を挟撃したという神武東征の記述()は、地理的に整合性が取れている。


時 椎根津彥 計之曰 今者宜先遣我女軍 出自忍坂 道虜見之 必盡鋭而赴 吾則駈馳勁卒 直指墨坂 取菟田川水 以灌其炭火 儵忽之間 出其不意 則破之必也 天皇善其策 乃出女軍 以臨之 虜謂大兵已至 畢力相待 ――中略―― 果 以男軍越墨坂 從後 夾擊破之 斬其梟帥兄磯城等

この部分は、通常の読み下し文とは異なるテニヲハを付加するほうが意味が通るという問題がある。面倒を避けるため、ここに自作の現代語訳は記さない。

「出自忍坂(忍坂より出る)」と椎根津彦が言うので、忍坂は椎根津彦が常駐する土地と考えられる。これは能登と推測した(過去記事:道臣が忍坂で討った土雲八十建=八千矛)。
椎根津彦は、能登を出たらすぐ墨坂へ行き、川水で炭火を消すと言う。雨が降れば消えてしまう炭火が何を比喩するのかは不明だが、墨坂の障害を排除すると、神武と打ち合わせた。
そして出陣した椎根津彦(久比岐勢)に、敵(大和勢)は全軍を向けて相対し、そこへ天皇(淡路勢)が出撃する。これは、椎根津彦が高志から南下、敵が大和から北上、神武が淡路から敵の背後を衝く図式だ。

この戦いで大和勢は、淡路勢と久比岐勢の連合に屈した。
おおよそ履中[17]の頃まで淡路勢と久比岐勢は、大和で影響力を保持するのではなかろうか(過去記事:5世紀、畿内の九州勢は大和勢に屈した)。

この力関係を表すエピソードが、崇神[10]紀の天照と倭大國魂の遷座()なのだと思う。

先是 天照大神 倭大國魂 二神並祭於天皇大殿之内 然 畏其神勢 共住不安 故 以天照大神 託豐鍬入姬命 祭於倭笠縫邑 仍立磯堅城神籬 神籬 此云比莽呂岐 亦 以日本大國魂神 託渟名城入姬命令祭 然 渟名城入姬 髮落體痩 而 不能祭

先是 天照大神 倭大國魂 二神を天皇大殿の内に並べ祭る 然 其神の勢いを畏れる 共に住むは安からず 故 天照大神を以て 豊鍬入姫命に託す 倭笠縫邑に祭る 仍ち磯堅城(しかたき)の神籬を立てる 神籬 此れ云う比莽呂岐 亦 日本大國魂神を以て 渟名城入姫命に託し祭らせ令(し)める 然 渟名城入姫 髮は落ち體(体)は痩せる 而 祭るに能わず

天照は淡路勢のルーツである北九州の神であり、倭大國魂は久比岐の神だ(過去記事:倭大國魂は翡翠を象徴する久比岐の神)。敗者にとって勝者の神は恐れ多いということだろう。

だがまあ、それ以前に既婚男性のサガとして、嫁(御間城姫)の両親に頭が上がらなかったとも考えられる。天照は嫁の父・大彦の淡路勢から、倭大國魂は嫁の母の久比岐勢から大和に齎された。舅姑に纏わる神を寝所に祀るのはイヤに違いない。

このエピソードは崇神[10]時代の勢力図を表すと同時に、婿殿あるあるネタで読者を和ませる意図もあるのではなかろうか。崇神の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖」がそこはかとなく入り婿っぽさを醸し出している辺り、狙ってると思う。

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