神武東征、ハタヒの皇女
当ブログの提唱する説。
日向国から近畿へ東征した神武と兄たちは履中・住吉仲皇子・反正・允恭の四兄弟(仮)、紀伊半島南岸を進み奈良盆地の手前まで到達した神武は安康・雄略の兄弟。
四兄弟に(仮)をつける理由は、本当に両親が同じ兄弟か疑わしいからだ。
6人の最初、履中[17]皇后について、古事記はなにも記さないが、日本書紀は草香幡梭皇女(親兄弟の記述なし)とし、中蒂姫(安康[20]皇后)を生んだと記す。
6人の最後、雄略[21]皇后は、古事記は波多毘能若郎女、日本書紀は草香幡梭姫皇女(仁徳[16]皇女、母は日向髪長媛)とし、記紀ともに子について記さない。
古事記はもう1人、「ハタヒ」を含む名前の皇女を記す。
日向泉長媛(親兄弟の記述なし)が生んだ応神[15]皇女、幡日之若郎女である。
古事記(応神記冒頭):
又娶 日向之泉長比売 生御子 大羽江王 次小羽江王 次幡日之若郎女 三柱
日本書紀(応神二年春三月):
次妃 日向泉長媛 生 大葉枝皇子 小葉枝皇子
だが日向を冠する妃を母とする皇女の名前に「ハタヒ」を含む2例から、日本書紀のみが記す履中[17]皇后の名前も日向国を意識したものではないか。
延いては、日向国から東征した「神武一行の構成員」の最初と最後であると暗示しているのではないか。
日本書紀が記す履中[17]皇后(草香幡梭)と雄略[21]皇后(草香幡梭姫、仁徳[16]皇女)は名前が似ており、世代的には履中[17]と重なること、雄略[21]とのあいだに子がないことなどから同一人物とみる説もあるらしいが、これは支持しない。
履中[17]皇后(草香幡梭)は、2つの目的のために創作された架空の人物であると提唱する。 目的の1つは、履中[17]が「神武一行の構成員」の最初であると暗示すること。
もう1つは、安康[20]が同母姉を立后したことを隠蔽すること。
日本書紀は、履中[17]皇后(草香幡梭)の生んだ中蒂姫を安康[20]皇后と記す。
中蒂姫は大草香皇子の妻として眉輪王を生み、大草香皇子を殺害した安康[20]の皇后になった。
古事記の記述では、允恭[19]皇后(忍坂大中姫)は木梨之軽王、長田大郎女、安康[20]、軽大郎女、雄略[21]ほか、9人の子を生んだ。
長田大郎女は大日下王の嫡妻として目弱王を生み、大日下王を殺害した安康[20]の皇后になった。
古事記(允恭記序盤):
此天皇 娶意富本杼王之妹 忍坂之大中津比売命 生御子 木梨之軽王 次長田大郎女 次境之黒日子王 次穴穂命 次軽大郎女亦名衣通郎女 御名所以負 衣通王者 其身之光自衣通出也 次八瓜之白日子王 次大長谷命 次橘大郎女 次酒見郎女 九柱
古事記(安康記):
故 天皇大怒 殺大日下王 而 取持来其王之嫡妻 長田大郎女 為皇后 ――中略―― 於是 其大后先子 目弱王 是年七歲 是王 当于其時 而 遊其殿下
日本書紀の允恭紀、および古事記の允恭記は、安康[20]雄略[21]らと両親を同じくする木梨軽皇子と軽大娘皇女の兄妹間の近親相姦が処断される悲劇を記す。
安康[20]が同母姉(長田大郎女)を立后したとする古事記の記述は、木梨軽皇子と軽大娘皇女のの悲劇と矛盾しており、倫理的にも容認しがたいものと推測される。この問題を解決することも、履中[17]皇后を創作する理由の1つではないか。
ちなみに。
日本書紀にはもう1人、日向国の后妃がいる。景行[12]妃の日向髮長大田根は日向襲津彦(阿牟君祖)を生んだ。古事記には記されない。
阿牟君は、雄略[21]紀にみえる筑紫安致臣と同一とする説もあるが、真偽不明。
日本書紀(応神四年春二月):
次妃日向髮長大田根 生日向襲津彦皇子 是阿牟君之始祖也
日本書紀(雄略二十年夏四月):
廿三年夏四月 百済文斤王薨 天王 以昆支王五子中第二末多王 幼年聡明 勅喚内裏 親撫頭面 誡勅慇懃 使王其国 仍賜兵器 幷 遣筑紫国軍士五百人 衛送於国 是為東城王 是歳 百済調賦 益於常例 筑紫安致臣 馬飼臣等 率船師 以撃高麗