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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

天孫降臨、鹿のトーテム

古事記の国譲りと天孫降臨を日本書紀と比較
・猿田彦と天鈿女の道案内(一書第一)
・寿命短縮(一書第二)
・星神香香背男を記さない(一書第一)
寿命短縮は、瓊瓊杵が磐長姫を拒んだために人間は早死にするようになった話。
初期天皇の非現実的ご長寿は仁徳[16]まで。
とすれば、古事記の瓊瓊杵は仁徳と考えられる。
古事記 寿命短縮
爾大山津見神 因返石長比売 而 大恥 白送言 我之女 二並立奉由者 使石長比売者 天神御子之命 雖雨零風吹 恒如石 而 常堅不動坐 亦 使木花之佐久夜毘売者 如木花之栄栄坐 宇気比弖 自宇下四字以音 貢進 此令返石長比売 而 独留木花之佐久夜毘売 故 天神御子之御寿者 木花之阿摩比能微此五字以音坐 故 是以至于今 天皇命等之御命 不長也
日本書紀 第九段一書第二 寿命短縮
故 磐長姫 大慙而詛之曰 假使 天孫不斥妾而御者 生兒永壽 有如磐石 之常存 今既不然 唯弟獨見御 故 其生兒 必如木花之移落 一云 磐長姫恥恨而唾泣之曰 顕見蒼生者 如木花之 俄遷轉当衰去矣 此世人短折 之緑也

血統としての仁徳[16]は4世紀後期ごろの人物だ。母系先祖は尾張国造家であり、垂仁[11]以降では初の「太平洋側出身の女性から生まれた天皇」である。
天照は太平洋側、月読は瀬戸内沿岸、素戔嗚は日本海側の勢力とする自論とも合致する。

成務仁徳日触使主

87年という仁徳の在位年数は、3世代100年の計算でおよそ2.5世代あまり。山幸彦と鵜葺草葺不合も仁徳[16]を構成する要素である可能性を考えている。

仮に山幸彦も仁徳[16]の一部ならば、海幸彦(隼人祖)は誰か。
応神13年春三月の一云によると、日向諸縣君牛は髪長媛を応神へ貢ぐために、鹿の皮を被って海を泳いできた。淡路島にいる応神が見つけたとき、諸県君牛等は「播磨鹿子水門」に入った。播磨鹿子水門は播磨国の加古川河口付近とされる。
のちに仁徳が髪長媛を見初め、これに気づいた応神は仁徳に下賜。髪長媛は仁徳妃となり、草香幡梭姫皇女(雄略[21]皇后)を生む。

また仁徳38年秋七月、夜ごとに菟餓野から聞こえていた鹿鳴きがはたと止み、翌日、牡鹿の肉が猪名縣の佐伯部から献上された。鹿の鳴き声に感じ入っていた仁徳は恨めしく思い、佐伯部を安芸渟田へ遠ざけた。菟餓野は大阪市北区兎我野町、神戸市灘区都賀川流域などの説あり。

鹿が南九州地域のトーテムである可能性を考える。
菟餓野に住む熊襲を鹿に例え、猪名縣の佐伯部(東国から連れてきた異民族、蝦夷等)が彼らを害した事件を描いているのではないか。

景行12年11月、征西した景行[12]が討伐した熊襲梟帥の名前は「厚鹿文」「迮鹿文」、討伐に利用した梟帥の娘の名前は「市乾鹿文」「市鹿文」。いずれも鹿を含む。
景行27年12月、日本武が女装して討伐した熊襲の魁帥の名前は取石鹿文(亦曰く川上梟帥)。これも鹿を含む。

また日本書紀第九段の天孫降臨において、天孫降臨した瓊瓊杵が見初めて娶った女性の名前に鹿を含む逸話は3つ。本伝、一書第二、第五。
本伝、鹿葦津姫(亦名を神吾田津姫、木花之開耶姫)
一書第二、神吾田鹿葦津姫(亦名を木花開耶姫)
一書第五、吾田鹿葦津姫

鹿を含む逸話の舞台は南九州で、含まない逸話の舞台は南九州以外と考えられないか。
含まない逸話は一書第六、第七、第八、古事記。一書第七を除く3つは火明を瓊瓊杵の兄と記す。

天孫降臨

猪名縣の佐伯部が信越地方から連れてこられた人々ならば、久比岐国造は椎根津彦の一族だから、綿津見に例えることもできよう。安曇野の穂高神社が祀る穂高見命は綿津見の子だ。

仁徳65年には両面宿儺討伐も記されている。治世下で狭穂彦討伐・阿彦討伐が起きたとされる垂仁[11]は治世期間が99年もあるため、仁徳[16]の治世期間(87年)と重複する。
4世紀ごろヤマトは高志国を侵略した。北陸・信越地方から連行された人々も佐伯部にされたのではないか。

仁徳67年10月、河内石津原に陵を造成する工事中に走って来た鹿が突然倒れ死に、その耳から百舌が飛び去る。見ると鹿の耳のなかは食い荒らされていた。
神語歌(古事記)の奴奈川姫と八千矛のやりとりから推察するに、久比岐のトーテムは鳥。 この逸話も、仁徳38年の菟餓野の逸話同様に、信越勢が南九州勢を打破したことを示す物語ではないか。

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日本海vs.太平洋 /20250103

2025年あけましておめでとうございます。
年始早々に考察と改訂。

考察:三貴子について。

すでに月読は瀬戸内に定義してある。残る天照と素戔嗚だが、イメージどおり、天照は太平洋、素戔嗚は日本海でよいだろう。
三貴子とは、それぞれの海の《沿岸の地域勢力》である。

改訂:時系列図

時系列図 2025

母系先祖を辿ると葛城氏系が多いが、東海の尾張氏に通じるのは仁徳[16]しかおらず、その仁徳は聖帝などと持ち上げられている。一方で、その系統の最後にあたる武烈[25]は残虐とされ、貶められている。

次代の継体[26]は日本海側の越前に所縁があり、続く蘇我氏も国造本紀によれば北陸を地盤する日本海側の系統である。

一方、蘇我氏を排除した天智[38]の父親である舒明[34]の母方の祖母が伊勢に所縁があり、太平洋側の系統である。

雑感:

神話では《天照の田は良く、素戔嗚の田は悪い》とされ、かつては事実そのとおりだったろう。しかし戦後、継体所縁の越前で開発されたコシヒカリが、翡翠産地糸魚川を有する越後でブランド米になり、現在は日本米の主流になっていると思うと、なかなか感慨深い。

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八千矛と葦原色許男の正体 /20241103

今年(2024年)4月にyoutube公開した動画内で「八千矛の正体は菟道稚郎子ではないか」との推測を公表したのだが、失敗だったと思う。

八千矛の逸話は『因幡の白兎』と『葦原色許男』の次に記載されている。 因幡の白兎の大国主とは孝元天皇のことであり、謹製の時系列図において孝元天皇の御代は4世紀中期ごろだ。単純に1世代33年として、八千矛は5世紀前期以降の人物から探すべきだろう。

謹製 時系列図

また、八千矛の逸話には乗馬の描写がある。
この部分を後世の創作とみる意見があり、過去には私も賛同していた。しかし八千矛が5世紀以降の人物ならば当然、馬に乗るだろう。

あらためて八千矛の特徴を整理する。
1. 活動年代は5世紀以降。
2. 《須勢理毘売》に相当する有力な古い妻と、《沼河比売》に相当する翡翠の産地久比岐の新しい妻がいる。
3. 奈良盆地に入らず生涯、日本海側に留まる。

相応しいのは唯1人、継体天皇[26]だ。
須勢理毘売には尾張目子媛、沼河比売には手白香皇女が該当する。

尾張目子媛は尾張連祖、父親は尾張草香、古事記によれば凡連という兄がいる。尾張氏のルーツは北陸にあり、越後国一宮弥彦神社主祭神の天香山が尾張氏の祖先神である。
父親と兄以外の血縁者が記録されてない目子媛は、北陸の尾張氏だろう。

手白香皇女の母親は仁賢[23]皇后の春日大娘皇女、母方の祖母は雄略[21]妃の和珥童女君であり、母系先祖の和珥氏の祖は世襲足媛長子の天足彦国押人である。世襲足媛の兄は葛木彦の亦名を持つ瀛津世襲。
瀛津世襲の系統は失脚させられたが、世襲足媛から派生した和珥氏が近畿で存続して后妃を輩出した。その背景として、世襲足媛から女系で、翡翠の産地久比岐の統治権を継承していたからではないかと推測する。
おそらく手白香皇女は久比岐の統治権を有していたのだろう。

古事記の記載順は『因幡の白兎』『葦原色許男』『神語歌』。
神語歌の八千矛に比定する継体[26]の御代は6世紀前期。
因幡の白兎の大国主に比定する孝元[8]の御代は4世紀中期ごろ。
よって葦原色許男は4世紀後期から5世紀後期の人物から見つけたい。

天孫本紀によれば穂積氏には《シコ》を名前に含む人物が散見できる。
母方の祖が穂積氏に通じる天皇は、開化[9]と安康[20]と雄略[21]。いずれの治世も4世紀後期から5世紀後期の範囲内だ。

このうち皇后の父が須佐之男らしいのは雄略[21]だろう。
雄略[21]皇后の草香幡梭姫皇女の父親は仁徳[16]だが、仁徳[16]の子は雄略[21]よりだいぶ年上になるはずだ。なにかしらの意図があるのだろう。

仁徳[16]は陵墓が大阪平野の百舌古墳群にあり、大阪平野の勢力は紀元1世紀以前に来た《月読》に推定した。月読と保食の逸話(紀)はスサノオと大宜都比売の逸話(記)と似ている。

仁徳[16]の母系先祖は東海の尾張氏に通じる。北陸の尾張氏の瀛津世襲(亦云葛木彦)が《一書第一の大己貴》の正体なので、尾張氏の権力者はスサノオになりえるだろう。

なにより八千矛(継体[26])の須勢理毘売(尾張目子媛)も尾張氏だ。
整合性がとれている。

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