忍者ブログ
素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

八千矛と葦原色許男の正体 /20241103

今年(2024年)4月にyoutube公開した動画内で「八千矛の正体は菟道稚郎子ではないか」との推測を公表したのだが、失敗だったと思う。

八千矛の逸話は『因幡の白兎』と『葦原色許男』の次に記載されている。 因幡の白兎の大国主とは孝元天皇のことであり、謹製の時系列図において孝元天皇の御代は4世紀中期ごろだ。単純に1世代33年として、八千矛は5世紀前期以降の人物から探すべきだろう。

謹製 時系列図

また、八千矛の逸話には乗馬の描写がある。
この部分を後世の創作とみる意見があり、過去には私も賛同していた。しかし八千矛が5世紀以降の人物ならば当然、馬に乗るだろう。

あらためて八千矛の特徴を整理する。
1. 活動年代は5世紀以降。
2. 《須勢理毘売》に相当する有力な古い妻と、《沼河比売》に相当する翡翠の産地久比岐の新しい妻がいる。
3. 奈良盆地に入らず生涯、日本海側に留まる。

相応しいのは唯1人、継体天皇[26]だ。
須勢理毘売には尾張目子媛、沼河比売には手白香皇女が該当する。

尾張目子媛は尾張連祖、父親は尾張草香、古事記によれば凡連という兄がいる。尾張氏のルーツは北陸にあり、越後国一宮弥彦神社主祭神の天香山が尾張氏の祖先神である。
父親と兄以外の血縁者が記録されてない目子媛は、北陸の尾張氏だろう。

手白香皇女の母親は仁賢[23]皇后の春日大娘皇女、母方の祖母は雄略[21]妃の和珥童女君であり、母系先祖の和珥氏の祖は世襲足媛長子の天足彦国押人である。世襲足媛の兄は葛木彦の亦名を持つ瀛津世襲。
瀛津世襲の系統は失脚させられたが、世襲足媛から派生した和珥氏が近畿で存続して后妃を輩出した。その背景として、世襲足媛から女系で、翡翠の産地久比岐の統治権を継承していたからではないかと推測する。
おそらく手白香皇女は久比岐の統治権を有していたのだろう。

古事記の記載順は『因幡の白兎』『葦原色許男』『神語歌』。
神語歌の八千矛に比定する継体[26]の御代は6世紀前期。
因幡の白兎の大国主に比定する孝元[8]の御代は4世紀中期ごろ。
よって葦原色許男は4世紀後期から5世紀後期の人物から見つけたい。

天孫本紀によれば穂積氏には《シコ》を名前に含む人物が散見できる。
母方の祖が穂積氏に通じる天皇は、開化[9]と安康[20]と雄略[21]。いずれの治世も4世紀後期から5世紀後期の範囲内だ。

このうち皇后の父が須佐之男らしいのは雄略[21]だろう。
雄略[21]皇后の草香幡梭姫皇女の父親は仁徳[16]だが、仁徳[16]の子は雄略[21]よりだいぶ年上になるはずだ。なにかしらの意図があるのだろう。

仁徳[16]は陵墓が大阪平野の百舌古墳群にあり、大阪平野の勢力は紀元1世紀以前に来た《月読》に推定した。月読と保食の逸話(紀)はスサノオと大宜都比売の逸話(記)と似ている。

仁徳[16]の母系先祖は東海の尾張氏に通じる。北陸の尾張氏の瀛津世襲(亦云葛木彦)が《一書第一の大己貴》の正体なので、尾張氏の権力者はスサノオになりえるだろう。

なにより八千矛(継体[26])の須勢理毘売(尾張目子媛)も尾張氏だ。
整合性がとれている。

* * *
PR

欠史八代の時系列を改訂 /20240822

時系列改訂の前に追加で1つ改訂。

以前は磯城氏(一書第二の大己貴)を山陰勢と見なしていたが、ここに正式に改め、対馬海峡沿岸から来た人々とする。磯城氏は2世紀に奈良盆地に入り纏向を興す。纏向は三貴子の素戔嗚に例えられる。

先んじて紀元前1世紀ごろに対馬海峡沿岸から来て淡路島と摂津に入った勢力が、月読に例えられる人々である。彼らは紀伊国・阿波国へ進出する。

孝元[8](磯城)は「因幡の白兎」における大国主である。
そして大国主を殺そうとする卑劣な兄たちは《月読に例えられる人々》である。

神々の親子兄弟設定は、その神々が象徴する勢力同士の関係が深いことを表す。
先に近畿へ進出していた同郷の人々は、磯城氏からみて《兄》となる。

では本題の時系列。

宮の造営地から、綏靖[2]孝昭[5]孝安[6]は葛城勢、初代纏向大王[1]懿徳[4]孝元[8]は磯城勢。
纏向活用期間に綏靖[2]安寧[3]懿徳[4]が充たると仮定する。

綏靖[2]孝昭[5]孝安[6]を連続させると、孝昭と孝安の境界が4世紀前期になる。
瀛津世襲=狭穂彦、世襲足媛=狭穂姫、孝安=誉津別とする自説に合致。

神武[1]は綏靖[2]の前に接すると仮定すると、神武の始めは2世紀中期になる。
2世紀中期の神武[1]が素戔嗚なら6世孫の大国主は4世紀中期になる。
懿徳[4]の後に孝元[8]が接すると仮定すると、孝元の後半が4世紀中期に合致。

孝元[8]は一書第二の大己貴であると定義した。
この国譲りによって磯城氏ではない開化[9](穂積氏)が後に接する。

安寧[3]の片塩浮孔宮は葛城と唐古鍵の中間付近にある。
安寧は本伝の天穂日であり、本伝の大己貴は唐古鍵(穂積氏)であると定義した。
天穂日を派遣した高皇産霊の5世孫が葛城国造剣根だ。
よって安寧(本伝の天穂日)は、唐古鍵に阿った葛城氏と考える。

孝霊[7]は和風諡号(天足彦国押人)に国押を含むので、葛城氏と思われる。
孝霊[7]の黒田庵戸宮は唐古鍵に近く、唐古鍵に関係の深い葛城氏だろう。

黒田庵戸宮の真東に西殿塚古墳(3世紀後期の大型前方後円墳)がある。
安寧[3]の後に孝霊[7]が接すると仮定すると、孝霊[7]の前半が3世紀後期に合致。

* * *

活動年代表を改訂して在位年数を反映する /20240730

仁徳[16]以前には異常なご長寿天皇が多くいらっしゃる。
これまでは非現実的と判断して、在位年数の情報を無視してきた。

日本書紀の退位年一覧(即位時を1と数える)

しかし一方で、景行[12]を複数人の丹波勢の合成と定義して、1世代33.333...年の定義から除外した。またなし崩し的に、景行と在位期間の同じ成務[13]も定義から除外した。

これを不誠実な姿勢と反省して、全員の在位年数を考慮に加えることにした。

考え方は、漢風諡号に神を含まない天皇は景行と同じだ。母親が所属する地域勢力ごとの有力者の集合体と見なす。
ただし臣下は例外なく一個人と見なす。和珥武振熊、武内宿祢、中臣烏賊津が長寿すぎないように、歯田根も狭穂彦の5世孫として無理のないようにする。

神を含む天皇は時系列の折返し点であり、特殊であるため、個別に検討する。

仁徳以降

継体(507-531年)を基準点として、単純に在位年数を反映した。

神功(69)と応神(41)

4世紀おわり~5世紀はじめの朝鮮半島に関する記述あり。
おわりを直支王在位年に合わせると、はじまりが纏向終焉に重なる。

広開土王碑:4世紀おわり~5世紀はじめ、百済と新羅を降した倭国と高句麗が戦い、高句麗が勝利したとを記す。三韓征伐の後日談と考えられる

微叱許智:未斯欣(みしきん)に比定。第17代新羅王である奈勿尼師今(なもつにしきん、在位356-402年)の第3王子

辰斯王(しんしおう):第16代百済王(在位385-392)
阿花王(あくえおう):第17代百済王の阿莘王(あしんおう、在位392-405年)
直支王(ときおう):第18代百済王の腆支王(てんしおう、在位405-414年)

次の朝鮮半島に関する記述は允恭晩年(42)、新羅が調を減らすとある。

仲哀(9)

広開土王碑は、辛卯年(391年)に倭が百済と新羅を降すと記す。
日本書紀は仲哀9年に崩御、同年10月神功が出航して新羅を降すと記す。

景行(60)と成務(60)

成務は、仲哀の1世代前であることを否定する材料がない。

景行の母(日葉酢媛)が纏向終了時に適齢期なら、景行は4世紀中期をカバーする。
また、成務と在位年数が同じこと、母系氏族が異なることから、景行と成務の2氏族は同列に扱われているものと推測する。

日葉酢媛から100年3世代で遡ると、纏向開始前が孝元世代になる。孝元の母は磯城氏であり、孝元は古事記が記す素戔嗚6世孫の大国主に比定した。記紀は同族の先祖と子孫を同神で表すので、ここでの孝元は初代纏向大王と重ねているのだろう。

垂仁(99)

狭穂彦と瀛津世襲を同一視して第九段書一の大己貴に比定する自説に則り、3世紀末期をカバー。

垂仁87年、五十瓊敷から石上神宮を託された大中姫は、管理を物部十千根に委ねる。
開化の母親の欝色謎と皇后の伊香色謎は、先代旧事本紀によると物部氏(穂積氏)。
この逸話を権力を移譲したことの比喩ならば、垂仁治世のおわりと開化治世のはじめは近くなると考える。

結果として、垂仁と景行と成務が同時代に並ぶ。
推測するに、垂仁は奈良盆地、景行(母親は丹波道主の女)は丹波、成務(母親は八坂入彦(尾張大海媛の子)の女)は高志の地域勢力を表すのだろう。

欠史八代

在位期間と享年が現実的であることから、綏靖と安寧と懿徳は実在の個人であり、正当に権力が継承されたと推定する。
安寧は第九段本伝の天穂日、懿徳は第九段本伝書一の天稚彦に比定しているので、綏靖安寧懿徳の3代は纏向の活用年代と重なると考える。

宮が近いことから、神武と懿徳と孝元は同一勢力(磯城氏、男系)と推定する。
素戔嗚の6世孫を大国主とする古事記の系譜において、素戔嗚を初代纏向大王、大国主を孝元と推定する。神武の活動年代は纏向開始の3世紀はじめ前後になり、100年3世代として、6世孫の孝元は4世紀後期前後になる。

宮が近いことから、綏靖と孝昭と孝安は同一勢力(葛城氏、女系)と考える。
世襲足媛と狭穂姫を同一存在とする推定に基づいて、孝安の活動年代は4世紀中期をカバーすると考える。

妻の父に同一人物(磯城縣主葉江)が記される懿徳と孝昭と孝安と孝霊の活動年代は、近接してなければならない。
孝霊の宮から春分秋分の日の出方向に西殿塚古墳(3世紀後半)がある。なんらかの関係性があるのではないか?
折り返し先頭になる孝昭と孝霊の母親はどちらも先帝の兄の女という点が共通している。

孝元は古事記が記す素戔嗚6世孫の大国主に比定した。纏向開始時を初代として100年3世代で数えると孝元の活動年代はが4世紀後期になる。
孝元は第九段書二の大己貴にも比定した。孝元から国を譲り受けた勢力が開化(母親は穂積氏)と比定している。

開化の後ろ盾は紀伊勢と推定した。5世紀中期ごろまでしており、眉輪王の変(安康)との関係が疑われる。

神武と崇神は、在位年数をはるかに超える広い年代の逸話を収録していると考える。
よって日本書紀が想定する在位期間を逸話から推測できないので、とりあえず神武は綏靖の前、崇神は開化の後に配置した。
だが、崇神(68)=允恭(42)+安康(3)+雄略(23)である点が引っかかる。

神武の逸話は、日向(太平洋側)勢の台頭も逸話に描いているとみて、清寧世代までをカバーするものと考える。
崇神の逸話は、四道将軍最年長の吉備津彦世代からカバーするものと考える。

* * *