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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

天岩戸日食と卑弥呼は無関係

神逐が指す歴史上の事件は天照と素戔嗚の戦争であるという見解を、2010年に述べられた先達がいらっしゃると最近知った。


国立天文台NAOJ 国立天文台報

第13巻 第3・4号(2010年10月) 『天の磐戸』日食候補について [PDF]

 天文学者がいない時代の,あるいは天文学者がいない地域での日食が比較的詳しい挿話とともに,伝承や歴史として残るときの条件があるように思われる.次の3つの条件が満たされるとき,「日食が記録として残ることがある」というのが正確かもしれない.「必ず残る」とは言えない.
( i )日食が皆既または金環であること(あるいはそれに近い深食であること).
( ii )重要な歴史的事件が同時に生じること.
( iii )歴史的事件の観察者がいること.
 重要な事件の筆頭は戦争であろう.観察者は,記録をなりわいとするひとである.歴史家,作家,詩人などであろう.

∆T値の計算云々は、恥ずかしながら計算が苦手な私には難しい。
しかしもっと安直な計算で、天岩戸日食は158年ではないかと私は推測する。

箸墓古墳築造の記録が崇神[10]紀にあり、3世紀中頃から後半の築造とされている。
樂樂福神社の由緒が神逐もしくは誓約を指すならば、天岩戸日食は孝霊[7]以前の出来事になる。
ざっくり計算。
 (275 - 158) / (10 - 7) = 39
治世一代あたり平均39年はなかなか良い数字だと思う。
158年が孝安[6]の頃なら解は29.25年になり、より現実的かもしれない。

天岩戸日食が158年ならば、卑弥呼が活躍したと想定される年代より前になる。
しかも。

紀元158年日食が慶州で皆既なら,その皆既帯は中国地方を通るので,北九州と近畿では,ほぼ同じ0.97程度の最大食分の日食が見えた.この日食が「天の磐戸」日食としても,天照大神が九州にいたのか近畿にいたのか決着はつかない.

邪馬台国比定地論争には全く利用できない。
だが、6/16(90ページ)図4を根拠に、南九州と越前・若狭は天岩戸の候補地から除外されるかもしれない。

158年皆既月食を天岩戸日食に想定すると、2世紀前半の越前・若狭は出雲の勢力下にあったと考えられる。
そして小羽山30号墓(四隅突出型墳丘墓)は2世紀前半の築造と目されている。

福井市 清水地域の文化財 小羽山30号墓

福井市が挙げている紹介文に一言申すと、「越の王墓」は言いすぎだ。
高志は若狭より東の日本海岸地域を指す言葉であり、集落間には交流があって通婚もしていたが、政治的なまとまりはなかった。
出雲ではもう少し早い時期から大型の四隅突出墳丘墓(西谷2, 3, 4号墳)が築造され始めているから、出雲から導入した墓制だと推定する根拠にはなる。
出雲に接近した人物を葬った「越前の王墓」と言うのが妥当だろう。

出雲国風土記が記す「日渕川を以て造池を築き」「古志郷に宿居した古志国人」と、小羽山30号墓の被葬者に関わりがあるのか気になるところだ。

以下に、越前の四隅突出墳丘墓の概要について引用。

石川県埋蔵文化財センター 刊行物/資料 情報誌
2013年3月第29号 [PDF] :28-29/54(23ページ)

(2)弥生時代後期の様相 > 四隅突出型墳丘墓

越前地域では山陰系墳墓の「四隅突出型墳丘墓」が出現する。福井市小羽山30号墓(主丘部26×22m)・同26号墓(主丘部27×20m)はこの段階の最大規模の墳墓で、いずれも貼石・列石は無く、短小な突出部を持ち、およそ50~70個体分の祭祀土器を墓坑上に集積している。貼石・列石を欠く以外は山陰地方の四隅突出型墳丘墓における葬儀形式をほぼ忠実に再現していると評価してよい。四隅突出型墳丘墓は、若狭地域では現在のところ検出例はない。

(3)弥生時代終末期の様相 > 方形の大型墳墓(第5図)

一方、四隅突出型墳丘墓も造営されるが、福井市高柳2号墓は主丘部7×6m 前後と小規模である。

3 墓制の地域間交流 > 四隅突出型墳丘墓

現時点では小羽山墳墓群の8基と高柳2号墓の1基が知られ、そのすべてが貼石・列石を持たない点で、その造営に際しては越前の主体性を認め得る。弥生時代後期後半においては越前地域の有力墳墓として評価しうるが(小羽山30・26号)、終末期以降はむしろ方形墓に優れたものがあり、越前地域における首長墓クラスの墳墓形態としては継続していかないようだ。

2013年の資料で、越前の四隅突出型墳丘墓は小羽山古墳群に8基(21, 22, 23, 24, 26, 30, 33, 47号墳)と高柳2号墓の1基となっている。このうち最大が小羽山30号墓で、出土土器の傾向は法仏式古段階。次いで大きい小羽山26号墓は法仏式新段階ですこし時代が下るが、弥生終末期に入る以前の築造と目されている。
(古いPDFなどに南春日1号墳を四隅突出型墳丘墓とする資料があるが、2020年現在では方形墳丘墓に分類されている)

小羽山古墳群で四隅突出型墳丘墓が作られなくなった頃が、神逐だろうか?

158年日食が天岩戸日食ならば、記紀神話でいうところの誓約から国譲りまでは、二世紀後半に起こったという倭国大乱に該当するだろう。 誓約は瀬戸内から中国山地、神逐は越前から丹波方面、国譲りは久比岐・能登と出雲近辺が戦場と考えられ、戦火は広範囲に及ぶ。大乱と呼ぶに相応しい規模だ。

倭国大乱は、西日本の広範囲を戦場にして九州と出雲が戦い、勝利した九州が高志を得た。九州は、当時協力関係にあった大和を介して高志を運用し、のちに大和は九州の影響下から脱した。

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