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新潟から出土した遺物には、山陰から直接影響を受けた様子がない。
久比岐と出雲の関わりはごく浅いものだった。
この見解を発端に、日本書紀が描く倭国大乱を読み解いてきた。
崇神[10]紀にある倭迹迹日百襲姫の言葉。
吾聞 武埴安彥之妻吾田媛 密來 之取倭香山土 裹領巾頭而祈曰 是倭國之物實 乃反之 物實 此云望能志呂
吾は聞く 武埴安彦の妻の吾田媛 密(ひそか)に来る 之は倭香山の土を取る 領巾(ひれ、女性が肩から垂らす細長い布)で頭を裹(果、つつ)みて祈り曰く 是は倭国の物実 乃ち之を反(かえ)す 物実 此れ云う望能志呂(ものしろ)
越後一宮弥彦神社の祭神は天<香山>だ。
倭国大乱後、久比岐海人族の一部が近畿へ移り、<倭>氏を名乗った。
倭香山の土は倭国の物実。
史実を探るヒントは新潟の出土遺物から ――吾田媛の祈りは今も生きている。