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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

活動年代表を改訂して在位年数を反映する /20240730

仁徳[16]以前には異常なご長寿天皇が多くいらっしゃる。
これまでは非現実的と判断して、在位年数の情報を無視してきた。

日本書紀の退位年一覧(即位時を1と数える)

しかし一方で、景行[12]を複数人の丹波勢の合成と定義して、1世代33.333...年の定義から除外した。またなし崩し的に、景行と在位期間の同じ成務[13]も定義から除外した。

これを不誠実な姿勢と反省して、全員の在位年数を考慮に加えることにした。

考え方は、漢風諡号に神を含まない天皇は景行と同じだ。母親が所属する地域勢力ごとの有力者の集合体と見なす。
ただし臣下は例外なく一個人と見なす。和珥武振熊、武内宿祢、中臣烏賊津が長寿すぎないように、歯田根も狭穂彦の5世孫として無理のないようにする。

神を含む天皇は時系列の折返し点であり、特殊であるため、個別に検討する。

仁徳以降

継体(507-531年)を基準点として、単純に在位年数を反映した。

神功(69)と応神(41)

4世紀おわり~5世紀はじめの朝鮮半島に関する記述あり。
おわりを直支王在位年に合わせると、はじまりが纏向終焉に重なる。

広開土王碑:4世紀おわり~5世紀はじめ、百済と新羅を降した倭国と高句麗が戦い、高句麗が勝利したとを記す。三韓征伐の後日談と考えられる

微叱許智:未斯欣(みしきん)に比定。第17代新羅王である奈勿尼師今(なもつにしきん、在位356-402年)の第3王子

辰斯王(しんしおう):第16代百済王(在位385-392)
阿花王(あくえおう):第17代百済王の阿莘王(あしんおう、在位392-405年)
直支王(ときおう):第18代百済王の腆支王(てんしおう、在位405-414年)

次の朝鮮半島に関する記述は允恭晩年(42)、新羅が調を減らすとある。

仲哀(9)

広開土王碑は、辛卯年(391年)に倭が百済と新羅を降すと記す。
日本書紀は仲哀9年に崩御、同年10月神功が出航して新羅を降すと記す。

景行(60)と成務(60)

成務は、仲哀の1世代前であることを否定する材料がない。

景行の母(日葉酢媛)が纏向終了時に適齢期なら、景行は4世紀中期をカバーする。
また、成務と在位年数が同じこと、母系氏族が異なることから、景行と成務の2氏族は同列に扱われているものと推測する。

日葉酢媛から100年3世代で遡ると、纏向開始前が孝元世代になる。孝元の母は磯城氏であり、孝元は古事記が記す素戔嗚6世孫の大国主に比定した。記紀は同族の先祖と子孫を同神で表すので、ここでの孝元は初代纏向大王と重ねているのだろう。

垂仁(99)

狭穂彦と瀛津世襲を同一視して第九段書一の大己貴に比定する自説に則り、3世紀末期をカバー。

垂仁87年、五十瓊敷から石上神宮を託された大中姫は、管理を物部十千根に委ねる。
開化の母親の欝色謎と皇后の伊香色謎は、先代旧事本紀によると物部氏(穂積氏)。
この逸話を権力を移譲したことの比喩ならば、垂仁治世のおわりと開化治世のはじめは近くなると考える。

結果として、垂仁と景行と成務が同時代に並ぶ。
推測するに、垂仁は奈良盆地、景行(母親は丹波道主の女)は丹波、成務(母親は八坂入彦(尾張大海媛の子)の女)は高志の地域勢力を表すのだろう。

欠史八代

在位期間と享年が現実的であることから、綏靖と安寧と懿徳は実在の個人であり、正当に権力が継承されたと推定する。
安寧は第九段本伝の天穂日、懿徳は第九段本伝書一の天稚彦に比定しているので、綏靖安寧懿徳の3代は纏向の活用年代と重なると考える。

宮が近いことから、神武と懿徳と孝元は同一勢力(磯城氏、男系)と推定する。
素戔嗚の6世孫を大国主とする古事記の系譜において、素戔嗚を初代纏向大王、大国主を孝元と推定する。神武の活動年代は纏向開始の3世紀はじめ前後になり、100年3世代として、6世孫の孝元は4世紀後期前後になる。

宮が近いことから、綏靖と孝昭と孝安は同一勢力(葛城氏、女系)と考える。
世襲足媛と狭穂姫を同一存在とする推定に基づいて、孝安の活動年代は4世紀中期をカバーすると考える。

妻の父に同一人物(磯城縣主葉江)が記される懿徳と孝昭と孝安と孝霊の活動年代は、近接してなければならない。
孝霊の宮から春分秋分の日の出方向に西殿塚古墳(3世紀後半)がある。なんらかの関係性があるのではないか?
折り返し先頭になる孝昭と孝霊の母親はどちらも先帝の兄の女という点が共通している。

孝元は古事記が記す素戔嗚6世孫の大国主に比定した。纏向開始時を初代として100年3世代で数えると孝元の活動年代はが4世紀後期になる。
孝元は第九段書二の大己貴にも比定した。孝元から国を譲り受けた勢力が開化(母親は穂積氏)と比定している。

開化の後ろ盾は紀伊勢と推定した。5世紀中期ごろまでしており、眉輪王の変(安康)との関係が疑われる。

神武と崇神は、在位年数をはるかに超える広い年代の逸話を収録していると考える。
よって日本書紀が想定する在位期間を逸話から推測できないので、とりあえず神武は綏靖の前、崇神は開化の後に配置した。
だが、崇神(68)=允恭(42)+安康(3)+雄略(23)である点が引っかかる。

神武の逸話は、日向(太平洋側)勢の台頭も逸話に描いているとみて、清寧世代までをカバーするものと考える。
崇神の逸話は、四道将軍最年長の吉備津彦世代からカバーするものと考える。

* * *
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自説変更 月読による「なりすまし」 /20240512

ヤマトのはじめに尊ばれた3氏族は、穂積氏と磯城氏と葛城氏。

1.紀元前4・3世紀ごろ、唐古鍵に集落ができる(穂積氏)
2.淡路国・摂津国・紀伊国に、月読なる人々が入植
3.紀元3世紀初め、対馬海峡方面から入植した磯城氏が纏向を造成、翡翠産地(信越)から葛城氏を招聘する
4.3世紀中・後期、唐古鍵と纏向の双方向で婚姻を結ぶ
5.婚姻政策の結果、事代主と建御名方(瀛津世襲)が生まれる

纏向造成当初(2世紀後期・3世紀前期)の唐古鍵と纏向は対立したが、天穂日(安寧[3])と天稚彦(懿徳[4])の時代(3世紀中・後期)には関係改善に努めた。

唐古鍵は天照、纏向は素戔嗚
信越勢は高皇産霊、対馬海峡勢は神皇産霊
穂積氏は饒速日(宇摩志麻治)、葛城氏は天火明(天香山)

唐古鍵(穂積氏)の奈良盆地における権威が弱まった事件が、本伝の国譲り
信越勢(葛城氏)の奈良盆地における権威が弱まった事件が、書一の国譲り
対馬海峡勢(磯城氏)の奈良盆地における権威が弱まった事件が、書二の国譲り


ここまでは概ね従来の自説に沿う。
変更点は、国譲りを敢行した天照なり高皇産霊なりが、月読なる人々であること。

星神香香背男討伐に加勢した倭文氏は大阪平野(摂津国)が地盤と思われる。
孝元(磯城氏)に代わって奈良盆地に入った第十代纏向大王の母親は、阿波国ゆかりの伊香色謎である。

倭文氏・淡路国造・紀伊国造は神皇産霊の子孫なので、ルーツは北九州。
淡路島の五斗長垣内遺跡は朝鮮半島から鉄を仕入れている。潮流の激しい瀬戸内を渡るために、月の朔望を読む彼らが月読である。

古事記の月読が大宜都比売を殺める逸話は、和歌山平野(紀伊国)が対岸の徳島平野(阿波国)を侵略した物語だ。このあと葛城氏の分家である伊香色謎の一族が阿波国に入植した。

月読なる人々に囲われた葛城氏の分家が和珥氏だ。
和珥武振熊に討伐された両面宿儺は、越中国から飛騨国にかけて勢力を保持していた瀛津世襲に連なる人々(葛城氏近縁)である。


■ 月読なる人々が高皇産霊に成り代わる理屈。

本来の高皇産霊は翡翠産地の信越勢であり、纏向を造成した磯城氏に招聘されて奈良盆地へ移住した一族が葛城氏である。
よって見方によれば「葛城氏は高皇産霊」であり、別の見方では「葛城氏は素戔嗚(纏向)に包含される」といえる。

4世紀、月読なる人々は葛城氏を攻撃する。香香背男討伐、阿彦討伐、両面宿儺討伐、甘美内足尼排斥などが攻撃の成果だ。
月読なる人々の行動は、紀伊国が囲っている豊玉姫の子孫を推戴して葛城氏の嫡流に成り代わろうとしたものだ。豊玉姫は葛城氏のヒメである。

紀伊国の野望は4世紀後期頃、磯城氏(孝元[8])の国譲り(書二)で成就する。
これにより、紀伊国は完全に素戔嗚に成り代わる。
記紀神話では、遡って葛木彦こと瀛津世襲を排斥した逸話(逐降)の次の逸話(八岐大蛇退治)から、月読なる人々を素戔嗚として記す。

そして、本来の葛城氏のルーツである信越地方は高皇産霊なので、記紀神話は八岐大蛇退治よりまえの紀伊勢を高皇産霊と記した。


■ 月読なる人々が天照に成り代わる理屈

天岩戸隠れの原型になった逸話は、阿波国で観測した158年の日入帯食を擬人化したローカルな民話だ。純粋な太陽神が、記紀神話に転用されて皇祖神にされた。

記紀神話において、岩戸に隠れた天照は唐古鍵のことだが、天岩戸から出てきた天照は大綜杵の女である伊香色謎のことだ。
伊香色謎の母親である高屋阿波良姫は阿波国の女性と思われる。

記紀神話の天岩戸隠れは、天照(唐古鍵)が姿を消して昼が消え、常闇になったと記す。月は暗い空で輝く。
唐古鍵と纏向が衰退して、月読なる人々が猛威を振るった。

伊香色謎は阿波国出身であり、父親の大綜杵は大矢口宿祢(穂積氏祖)の子だ。
穂積氏は唐古鍵の有力氏族であるため、伊香色謎とその子(開化[9])を天照の再来に位置づけている。

ただし伊香色謎と開化[9]を推戴したのは月読なる人々である紀伊勢だ。第七段(天岩戸隠れ)書三は紀伊国と阿波国の良好な関係を記す。

日本書紀 第七段(天岩戸隠れ)一書第一
於是 天下恒闇 無復晝夜之殊 ――中略―― 故 即以石凝姥為冶工 採天香山之金 以作日矛 又 全剥真名鹿之皮 以作天羽韛 用此 奉造之神 是即 紀伊国所坐日前神也

天香山は葛城氏のことだ。
葛城氏は翡翠産地の豪族であり、翡翠は交易で鉄などの貴重品に替えられた。

鹿は丹波勢のトーテムだ。
丹波勢とは、3世紀末期に丹波へ移住した唐古鍵の人々のことだ。

日前神は紀伊国造家が奉斎する紀伊国一宮日前神宮のご神体(日像鏡・日矛鏡)だ。
伝承では、石凝姥が八咫鏡に先立って天照の姿を写しとり造ったとする。

以上を踏まえて、書一の逸話を読み解けば、

葛城氏の嫡流と唐古鍵の本流を犠牲にして、本来は月読である紀伊国が台頭した。
そして紀伊国台頭の勢いに乗じて、阿波国出身の人物を第二の天照に据えた。

となる。


■ なりすましの影響

天照を奪われた穂積氏は饒速日(宇摩志麻治)になる。
高皇産霊を奪われた葛城氏は天火明(天香山)になる。
素戔嗚を奪われた磯城氏のルーツである対馬海峡勢と、葛城氏のルーツである信越勢は海神(綿津見)になる。

関連して、事代主について。
日本書紀神代下第九段(国譲り)本伝の事代主は、海中に蒼柴籬をつくる。
籬(まがき)は竹や柴でできた垣根のこと。

日本書紀 神代下第九段(国譲り) 本伝
事代主神 謂使者曰 今 天神有此 借問之勅 我父 宜当奉避 吾 亦不可違 因於海中造八重蒼柴(柴 此云府璽)籬 踏船枻(船枻 此云浮那能倍) 而 避

垣根は屋敷や領地などの外周に設置して、土地の所有区域を明らかにする。
事代主は日本海を自分の領域にした。

これは、事代主が海神(綿津見)になったことを意味する。
唐古鍵と纏向が衰退(3世紀おわり~4世紀はじめ)して以降も存続できた氏族が事代主であり、海神族だ。命運を絶たれた者(瀛津世襲を含む)が建御名方だ。

つまり海神族は事代主の成れの果てであり、磯城氏や葛城氏の生き残りである。
また丹後の海部氏は、丹波へ移住した唐古鍵の本流の生き残りである。


■ 紀伊国の敵 吉備国

神武紀は、紀伊国の名草戸畔を討伐したと記す。
名草戸畔は第4の元伊勢である紀伊国の奈久佐浜宮にいたヒメ(巫女)だろう。
書二の大己貴である孝元[8](磯城氏)を追い払い、第3の元伊勢の倭国の伊豆加志本宮から地位を奪った。

第5の元伊勢が吉備国名方浜宮だから、木乃国奈久佐浜宮を潰したのは吉備国だ。
神武紀にて吉備国は、神武の兄の五瀬として描かれる。
吉備が雄略紀にて分割され、清寧紀に記す星川皇子の乱にて攻撃されたことを、五瀬が負った深手に例えている。


■ まとめ

月読であるはずの紀伊国やその属国の阿波国が、天照や素戔嗚や高皇産霊になりすますせいで記紀神話は難解になっている。

しかし日本書紀編纂者にはなりすましをよく思わない人物もいた。
月読のなりすましと思われる天照や高皇産霊は、逸話内のどこかで「天神」と表記されている。おそらく故意に区別したのだろう。

また紀伊国一宮伊太祁曽神社の祭神は、第八段書四と書五にて素戔嗚の息子と記される五十猛であり、素戔嗚ではない。記紀成立後の忌部氏の凋落ぶりとあわせて考えるに、他氏族から相当の反発があったのだろう。

* * *

一書第四と第六の天孫降臨 /20240422

日本書紀神代下、第九段一書第三以降は国譲りを記さない。
このうち瓊瓊杵降臨の場面を描くのは一書第四と第六のみ。

一書第四の特徴
・高皇産霊が瓊瓊杵を降ろす。天照は登場しない。
・随伴は天忍日(大伴連遠祖)と天槵津大来目(来目部遠祖)。
・事勝国勝長狭(亦名鹽土老翁)と出会い、国をもらう。
・木花開耶姫は登場しない。

一書第四は鹽土老翁から国を譲り受けている。
大己貴の国譲りに続けて天孫降臨を記す本伝、書一、書二とは別の出来事であり、瓊瓊杵の正体も別人と考えられる。

鹽土老翁は第十段(海幸山幸)において、山幸に海底へ行くようアドバイスする。
神武紀においては東征前の神武に東に、東の良い土地に饒速日がいると教える。
よって鹽土老翁は太平洋側の神と推測する。

wikipedia「シオツチノオジ」によれば、鹽土老翁は猿田彦と同一視できるという。
猿田彦は一書第一にて、伊勢之狭長田五十鈴川上に至ると記される。

wikipedia > シオツチノオジ > 伝承
先に述べた通り、江戸時代には塩土老翁神は猿田彦、事勝国勝、岐神、興玉命、太田命と同体異名の神とされたことがあったが、特に猿田彦神との関係性について、鹽竈神社末社の鼻節神社(宮城県七ヶ浜町)の祭神が猿田彦神であること、また神田明神末社の籠祖神社(現・合祀殿)では猿田彦大神と鹽土翁神が共に祀られていることなどから、塩土老翁神は猿田彦神と関係の深い神であるということが指摘される。

伊勢外宮に豊受姫を遷座したのは雄略[21]とされる。
雄略の母親は息長氏であり、古事記の系譜で先祖を辿ると穂積氏の弟橘媛(日本武の妃)に辿りつく。よって雄略[21]は唐古鍵系、つまり天照の系譜である。

次世代の清寧[22]は葛城韓媛が生んだ雄略[21]の皇子だ。
葛城氏は纏向系、つまり素戔嗚の系譜である。

おそらく一書第四の瓊瓊杵の正体は清寧[22]だ。
木花開耶姫が登場せず、子の記述がないのは、清寧に子が無いからだろう。

雄略[21]の泊瀬朝倉宮は、奈良盆地の際の山裾にある。
そこから5キロほど西、神武[1]の磐余橿原宮に寄せて清寧[22]の磐余甕栗宮がある。

雄略[21]と清寧[22]の宮

雄略[21]の泊瀬朝倉宮は、グーグルマップによると、伝承地が3か所ある。
ほかの2か所は、東の山をもう少し上った場所にある。

瓊瓊杵の父である天忍穂耳が降臨しない経緯は、本伝と書一と書二に記される。
書四の瓊瓊杵こと清寧[22]の父である雄略[21]の宮が奈良盆地にあってはおかしいと考え、記紀編纂後の人々が盆地から遠ざけたのではなかろうか。

清寧[22]は、5世紀後期頃の人物と思われる。
猿田彦が登場する書一の国譲りは、4世紀はじめの纏向衰退を描いている。
よって書四の事勝国勝長狭(鹽土老翁)は、書一の猿田彦の子孫と考える。

ただし本伝の事勝国勝長狭と、書四の事勝国勝長狭(鹽土老翁)は別人と考える。
次に、一書第六。

一書第六の特徴
・天火明は瓊瓊杵の兄。
・高皇産霊の台詞「昔遣天稚彦於葦原中国……云々」
・高皇産霊が瓊瓊杵を降ろす。天照は登場しない(天忍穂根は冒頭に登場)
・木花開耶姫と出会い、二子(火酢芹と火折、亦號彦火火出見)を生む

瓊瓊杵の兄である天火明は瀛津世襲の一族であり、北陸地方の神だ。
高皇産霊が「昔」という天稚彦は、3世紀後期ごろの懿徳[3]に比定した。書六の天孫降臨は、そこから数世代が経過した年代の出来事と考える。

北陸出身の天皇というと、6世紀前期ごろの継体[26]だろう。
継体の母は余奴臣祖の阿那尓比弥であり、余奴臣は越前国の有力者と考えられる。
誓約の五男神が象徴する地域は、天忍穂耳を北陸方面、天穂日を山陰方面、天津彦根を淀川大阪湾、活津彦根を東海方面、熊野櫲樟日を紀伊沿岸部に比定した。
血筋ではなく出身地域から、継体[26]は書六の天忍穂耳に推定できる。

おそらく継体[26]の子のうち、子を儲けた宣化[27]か欽明[28]のどちらかが、書六の瓊瓊杵だろう。

第九段(天孫降臨)本伝は火闌降を隼人の祖と記し、第十段(海幸山幸)書二は火酢芹を隼人の祖と記す。ほかの日本書紀の逸話は、隼人との関係を記さない。
第九段一書第六の瓊瓊杵の子に隼人の祖はいないと解釈できる。

書六は北陸地方の正当性を描いていると見える。
そして継体[26]の系譜は、蘇我系の聖徳太子に関する記述が多い上宮記逸文による。
もとは、北陸三か国の国造である蘇我氏の正当性を示す逸話ではなかろうか。

対して書四は、伊勢に正当性を作り出そうとしているようだ。
天智の系譜を正当化するための逸話だろう。

ちなみに。
書三は瓊瓊杵の子(火明、火進(火酢芹)、彦火火出見)の誕生の場面のみ。
書五は瓊瓊杵の子(火明、火進、火折、彦火火出見)の誕生の場面のみ。
書七は瓊瓊杵の系譜の別パターンを簡潔に記す。
書八も瓊瓊杵の系譜の別パターンを簡潔に記す。

――― 告知 ―――

動画の新シリーズ移行に連動して、当ブログも仕切り直す予定です。
右往左往してきた過去の自説変更の変遷は収蔵庫に蓄積しておきます。

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