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弥生中期以降、科野洲羽勢が広範な地域と交流していたことが、発掘された考古資料から推測されている。相模国三浦半島など、東京湾岸まで及んでいたようだ。
まず、当ブログのスタンスをおさらいしておく。
古事記の国譲り神話は全くの虚偽であり、建御名方は出雲大国主の子ではないと考える。根拠は、八千矛が越前平野の首長と考えられることや、出雲国風土記ですら大国主の子に建御名方を含めないことだ(過去記事:道臣が忍坂で討った土雲八十建=八千矛)。
倭国大乱について、日本書紀は思いの外きっちり書いている。
丹生川上の神事の意味さえ読み取れれば、大和が負けたと読めるのだから。