今年(2024年)4月にyoutube公開した動画内で「八千矛の正体は菟道稚郎子ではないか」との推測を公表したのだが、失敗だったと思う。
八千矛の逸話は『因幡の白兎』と『葦原色許男』の次に記載されている。 因幡の白兎の大国主とは孝元天皇のことであり、謹製の時系列図において孝元天皇の御代は4世紀中期ごろだ。単純に1世代33年として、八千矛は5世紀前期以降の人物から探すべきだろう。
謹製 時系列図
また、八千矛の逸話には乗馬の描写がある。
この部分を後世の創作とみる意見があり、過去には私も賛同していた。しかし八千矛が5世紀以降の人物ならば当然、馬に乗るだろう。
あらためて八千矛の特徴を整理する。
1. 活動年代は5世紀以降。
2. 《須勢理毘売》に相当する有力な古い妻と、《沼河比売》に相当する翡翠の産地久比岐の新しい妻がいる。
3. 奈良盆地に入らず生涯、日本海側に留まる。
相応しいのは唯1人、継体天皇[26]だ。
須勢理毘売には尾張目子媛、沼河比売には手白香皇女が該当する。
尾張目子媛は尾張連祖、父親は尾張草香、古事記によれば凡連という兄がいる。尾張氏のルーツは北陸にあり、越後国一宮弥彦神社主祭神の天香山が尾張氏の祖先神である。
父親と兄以外の血縁者が記録されてない目子媛は、北陸の尾張氏だろう。
手白香皇女の母親は仁賢[23]皇后の春日大娘皇女、母方の祖母は雄略[21]妃の和珥童女君であり、母系先祖の和珥氏の祖は世襲足媛長子の天足彦国押人である。世襲足媛の兄は葛木彦の亦名を持つ瀛津世襲。
瀛津世襲の系統は失脚させられたが、世襲足媛から派生した和珥氏が近畿で存続して后妃を輩出した。その背景として、世襲足媛から女系で、翡翠の産地久比岐の統治権を継承していたからではないかと推測する。
おそらく手白香皇女は久比岐の統治権を有していたのだろう。
古事記の記載順は『因幡の白兎』『葦原色許男』『神語歌』。
神語歌の八千矛に比定する継体[26]の御代は6世紀前期。
因幡の白兎の大国主に比定する孝元[8]の御代は4世紀中期ごろ。
よって葦原色許男は4世紀後期から5世紀後期の人物から見つけたい。
天孫本紀によれば穂積氏には《シコ》を名前に含む人物が散見できる。
母方の祖が穂積氏に通じる天皇は、開化[9]と安康[20]と雄略[21]。いずれの治世も4世紀後期から5世紀後期の範囲内だ。
このうち皇后の父が須佐之男らしいのは雄略[21]だろう。
雄略[21]皇后の草香幡梭姫皇女の父親は仁徳[16]だが、仁徳[16]の子は雄略[21]よりだいぶ年上になるはずだ。なにかしらの意図があるのだろう。
仁徳[16]は陵墓が大阪平野の百舌古墳群にあり、大阪平野の勢力は紀元1世紀以前に来た《月読》に推定した。月読と保食の逸話(紀)はスサノオと大宜都比売の逸話(記)と似ている。
仁徳[16]の母系先祖は東海の尾張氏に通じる。北陸の尾張氏の瀛津世襲(亦云葛木彦)が《一書第一の大己貴》の正体なので、尾張氏の権力者はスサノオになりえるだろう。
なにより八千矛(継体[26])の須勢理毘売(尾張目子媛)も尾張氏だ。
整合性がとれている。