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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

日本海vs.太平洋 /20250103

2025年あけましておめでとうございます。
年始早々に考察と改訂。

考察:三貴子について。

すでに月読は瀬戸内に定義してある。残る天照と素戔嗚だが、イメージどおり、天照は太平洋、素戔嗚は日本海でよいだろう。
三貴子とは、それぞれの海の《沿岸の地域勢力》である。

改訂:時系列図

時系列図 2025

母系先祖を辿ると葛城氏系が多いが、東海の尾張氏に通じるのは仁徳[16]しかおらず、その仁徳は聖帝などと持ち上げられている。一方で、その系統の最後にあたる武烈[25]は残虐とされ、貶められている。

次代の継体[26]は日本海側の越前に所縁があり、続く蘇我氏も国造本紀によれば北陸を地盤する日本海側の系統である。

一方、蘇我氏を排除した天智[38]の父親である舒明[34]の母方の祖母が伊勢に所縁があり、太平洋側の系統である。

雑感:

神話では《天照の田は良く、素戔嗚の田は悪い》とされ、かつては事実そのとおりだったろう。しかし戦後、継体所縁の越前で開発されたコシヒカリが、翡翠産地糸魚川を有する越後でブランド米になり、現在は日本米の主流になっていると思うと、なかなか感慨深い。

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八千矛と葦原色許男の正体 /20241103

今年(2024年)4月にyoutube公開した動画内で「八千矛の正体は菟道稚郎子ではないか」との推測を公表したのだが、失敗だったと思う。

八千矛の逸話は『因幡の白兎』と『葦原色許男』の次に記載されている。 因幡の白兎の大国主とは孝元天皇のことであり、謹製の時系列図において孝元天皇の御代は4世紀中期ごろだ。単純に1世代33年として、八千矛は5世紀前期以降の人物から探すべきだろう。

謹製 時系列図

また、八千矛の逸話には乗馬の描写がある。
この部分を後世の創作とみる意見があり、過去には私も賛同していた。しかし八千矛が5世紀以降の人物ならば当然、馬に乗るだろう。

あらためて八千矛の特徴を整理する。
1. 活動年代は5世紀以降。
2. 《須勢理毘売》に相当する有力な古い妻と、《沼河比売》に相当する翡翠の産地久比岐の新しい妻がいる。
3. 奈良盆地に入らず生涯、日本海側に留まる。

相応しいのは唯1人、継体天皇[26]だ。
須勢理毘売には尾張目子媛、沼河比売には手白香皇女が該当する。

尾張目子媛は尾張連祖、父親は尾張草香、古事記によれば凡連という兄がいる。尾張氏のルーツは北陸にあり、越後国一宮弥彦神社主祭神の天香山が尾張氏の祖先神である。
父親と兄以外の血縁者が記録されてない目子媛は、北陸の尾張氏だろう。

手白香皇女の母親は仁賢[23]皇后の春日大娘皇女、母方の祖母は雄略[21]妃の和珥童女君であり、母系先祖の和珥氏の祖は世襲足媛長子の天足彦国押人である。世襲足媛の兄は葛木彦の亦名を持つ瀛津世襲。
瀛津世襲の系統は失脚させられたが、世襲足媛から派生した和珥氏が近畿で存続して后妃を輩出した。その背景として、世襲足媛から女系で、翡翠の産地久比岐の統治権を継承していたからではないかと推測する。
おそらく手白香皇女は久比岐の統治権を有していたのだろう。

古事記の記載順は『因幡の白兎』『葦原色許男』『神語歌』。
神語歌の八千矛に比定する継体[26]の御代は6世紀前期。
因幡の白兎の大国主に比定する孝元[8]の御代は4世紀中期ごろ。
よって葦原色許男は4世紀後期から5世紀後期の人物から見つけたい。

天孫本紀によれば穂積氏には《シコ》を名前に含む人物が散見できる。
母方の祖が穂積氏に通じる天皇は、開化[9]と安康[20]と雄略[21]。いずれの治世も4世紀後期から5世紀後期の範囲内だ。

このうち皇后の父が須佐之男らしいのは雄略[21]だろう。
雄略[21]皇后の草香幡梭姫皇女の父親は仁徳[16]だが、仁徳[16]の子は雄略[21]よりだいぶ年上になるはずだ。なにかしらの意図があるのだろう。

仁徳[16]は陵墓が大阪平野の百舌古墳群にあり、大阪平野の勢力は紀元1世紀以前に来た《月読》に推定した。月読と保食の逸話(紀)はスサノオと大宜都比売の逸話(記)と似ている。

仁徳[16]の母系先祖は東海の尾張氏に通じる。北陸の尾張氏の瀛津世襲(亦云葛木彦)が《一書第一の大己貴》の正体なので、尾張氏の権力者はスサノオになりえるだろう。

なにより八千矛(継体[26])の須勢理毘売(尾張目子媛)も尾張氏だ。
整合性がとれている。

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欠史八代の時系列を改訂 /20240822

時系列改訂の前に追加で1つ改訂。

以前は磯城氏(一書第二の大己貴)を山陰勢と見なしていたが、ここに正式に改め、対馬海峡沿岸から来た人々とする。磯城氏は2世紀に奈良盆地に入り纏向を興す。纏向は三貴子の素戔嗚に例えられる。

先んじて紀元前1世紀ごろに対馬海峡沿岸から来て淡路島と摂津に入った勢力が、月読に例えられる人々である。彼らは紀伊国・阿波国へ進出する。

孝元[8](磯城)は「因幡の白兎」における大国主である。
そして大国主を殺そうとする卑劣な兄たちは《月読に例えられる人々》である。

神々の親子兄弟設定は、その神々が象徴する勢力同士の関係が深いことを表す。
先に近畿へ進出していた同郷の人々は、磯城氏からみて《兄》となる。

では本題の時系列。

宮の造営地から、綏靖[2]孝昭[5]孝安[6]は葛城勢、初代纏向大王[1]懿徳[4]孝元[8]は磯城勢。
纏向活用期間に綏靖[2]安寧[3]懿徳[4]が充たると仮定する。

綏靖[2]孝昭[5]孝安[6]を連続させると、孝昭と孝安の境界が4世紀前期になる。
瀛津世襲=狭穂彦、世襲足媛=狭穂姫、孝安=誉津別とする自説に合致。

神武[1]は綏靖[2]の前に接すると仮定すると、神武の始めは2世紀中期になる。
2世紀中期の神武[1]が素戔嗚なら6世孫の大国主は4世紀中期になる。
懿徳[4]の後に孝元[8]が接すると仮定すると、孝元の後半が4世紀中期に合致。

孝元[8]は一書第二の大己貴であると定義した。
この国譲りによって磯城氏ではない開化[9](穂積氏)が後に接する。

安寧[3]の片塩浮孔宮は葛城と唐古鍵の中間付近にある。
安寧は本伝の天穂日であり、本伝の大己貴は唐古鍵(穂積氏)であると定義した。
天穂日を派遣した高皇産霊の5世孫が葛城国造剣根だ。
よって安寧(本伝の天穂日)は、唐古鍵に阿った葛城氏と考える。

孝霊[7]は和風諡号(天足彦国押人)に国押を含むので、葛城氏と思われる。
孝霊[7]の黒田庵戸宮は唐古鍵に近く、唐古鍵に関係の深い葛城氏だろう。

黒田庵戸宮の真東に西殿塚古墳(3世紀後期の大型前方後円墳)がある。
安寧[3]の後に孝霊[7]が接すると仮定すると、孝霊[7]の前半が3世紀後期に合致。

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